昭和56年8月17日 朝
御理解第25節
信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。
昨日は、あのように盛大かつ麗しい夏の祈願祭を奉仕させて頂きました。皆さんお祝詞をお聞きになったと思いますが。あの、お祝詞の内容というものは、結局教会長私の信心の内容でなかならければならんと思うのです。普通は、ああではありませんですね。ある方が、もう合楽のお祝詞を、お祝詞を頂いておるだけで御大祭たんびに内容が変わっていくのにおかげを蒙りますという先生があったんですけど。確かにそうです。けれどあまりにも、何と言うですか、底の無いような偉大な、大きな内容ですから、ついつい私のお話も大きな話になってしまって、果たして皆さんがこれをどのようなふうに受けとめるであろうかと、後でちょっと心配になるくらいでした。お話した事をジーッと自分でも、また改めて頂いてみて。けれども、それは私の実感なのですから。
また、私の信心の内容なのですから。例えば、お祝詞を読ませて頂く中にでも、1・2回読ませて頂いておりましたけれども、いよいよお祝詞を奏上さして頂く時になったら、次々とお祝詞を奏上しながら訂正して読まなければならない事に気がつきました。幾らもあった中に、天地一如と言う所がございましたね。あそこを私は、天地神一如と読みました。大きいでしょ。天地一如じゃない。あれ、お祝詞には天地一如と書いてあった。けど私は、天地神一如と。
例えば、今日の御理解を頂きますと、信心はいわゆる、大きな信心が良いとこうおっしゃる。ただ大きな事言うてさえおれば良いかというのではなくて。その内容がね、段々充実してこなければなりません。ね。内容が充実という事。これはまあ、私の信心に見よっても、切実に私はあのお祝詞のような祈りを持っておるにいたしましてもです、充実ということになるとまあだ。まあだ。ね。もう限りない、言うなら、信心精進がいりますけれども。
昨日、夜の御祈念の後にお礼を申させて頂いておりましたら、余光という事を頂く。余る光という。ね。すがらの道真こうが、ときのみことにたまわられたと言う、あのころもをで、ね、おし頂いて、その余光を拝すとこう言う。あれは香ですよね。余った、言うなら香をまあ、思い起こさせて頂いてまあ考えにふけっておられるあれは、詞の中にそう言う言葉があったと思うんですけれども。私が頂いたのは、余りの光と。皆さんはそうは思われませんか。私は御大祭が済んで、後片付けなんども済んで、そしてここへ8時ちょっと前に座らせて頂いたんですけれども。夜の御祈念頂いて最後のお礼を申し上げる時にその余光を感じましたね。
いわゆる、お祭りの後の余韻とでも申しましょうか。それは素晴らしい余韻なのです。言うなら、30年前に私の話を聞いて助かられるようになって来た。まあだ、大坪さん大坪さんと皆が言われる時分に、私の事を大坪先生大坪先生と話を聞いて助かった人達は私を先生先生とこう言うわけです。それでその、怪しからん。教師でもない者がその、先生と言うてもならん。言われてもならんと言ったような問題がいつも起こっておりました。もう合楽のする事、成す事がしゃくに触ってこたえんという先生方も、教会もあった。
ある時に、それがあんまりじゅつないから、神様にお願いをさして頂いておりましたらね、このくらいな鯵か、鯖かの魚を、猫が爪でこうやって引っかいて、あっち引っ張ったり、こっち引っ張ったりしよるところを頂いたんですよ。はあ、これが今の自分の姿だなと。あっちで爪を立てられ、こっちで引っ張られといったような。だからね神様が、大きなあの、正月で使うような鰤を。昔あの、こう、家庭に下げましたでしょう。あのお知らせを頂いて、ブリブリとしたおかげを、お徳を頂けよと。もうそれこそ、例えば猫が下からジラーッとこうやって見るだけで爪も立てきらんようになるぞというような御理解頂いておった時代があったんですけどね。ほんとに、私はお祭りを仕えるにも、親教会の手前、親先生のあれ、まあ隣接教会のとか、いやもうとにかく隣接の総代さん達にも心を使う時代があったんです。
で昨日もその事をお礼申させて頂いたらね。遥かなるという事を頂いたんです。例え、んなら、もう言う人もないけれども、もう例えばなら、もう総代さん達まで心を使うておったのが、もう遥かなものになったという。私はそれを頂いて、また改めて感動したんですけどね。いつの間にこういうふうに心の状態が大きくなって行っただろう。小さい事に全然問題にしない。ああ、人間心を使うて、もうほんとに他所の教会の先生方にお粗末があっちゃない。ご無礼、不かいな感情を与えちゃならんといったような。もうそういう使う事もいらんような心を使うておった時代があるが。もう最近の私というものはそうではない。
ね。もうそういう、人とか物とか事柄というものはもう、私にとっては遥かなるものになってきた。ね。私大きな信心とはね、そういう事だと思うんです。同じ小さい事がいつまでもクヨクヨと心に掛かると言う間は、まあだ大きな事は言うておっても大きな、言うなら内容になっていない証拠であると。昨日その、余光という事と、遥かなるという事を頂いて、ほんとにいよいよ益々合楽の御ひれいというものは、これから輝いて行く事でしょうが。ね。おかげを受けて行かなければならんなというふうに思わしてもらいました。ね。
まさに、願うところ。昨日、朝の順子先生が、前夜祭の時に私の玉串を奉らせて頂く時に頂いたという。天地代表と頂いた。ね。私もこれ以上大きなものはない。大きな事はないと思う。ね。その事が、お祭りの後のお説教の芯にまあなったわけですけれども。ね。いよいよ私どもの願いというものが、大きな願いという事と同時に、それが一歩ずつでも内容が充実してくる。内容が出来てくるおかげを頂いて、ね、言うならば、何と申しましょうか。日々がね、今日一日の言うなら、余光を感ずる。
ね。例えば、普通人間が心配するような事には、もう心配せんですむ、そういう悩みとか心配というものはもう、それこそ遥かなるものに感じられるようなおかげをいよいよ頂きたいと思うですね。どうぞ。 (ゆきこ)